
「そして伝説へ…」
いわずと知れた『ドラゴンクエストIII』(1988 ENIX)のサブタイトルであり、UNDER17のラストアルバムタイトルでもあります。
最終話をもって『AIR』は、これを具現化しました。
悪い意味で"伝説"となった作品は数あれど、こんなにも良い意味で"伝説"となった作品は数少ないと思います。
メディアミックス展開ではなく、別のメディアを原作に持つ作品は、往々にして原作ファンからの評判は芳しくありません。
小説は小説、映画は映画。
そのメディア用に作られた作品の面白さは、なかなか他のメディアでは表現し切れないものと思います。
ところがこの『AIR』は、その偉業を成し遂げました。
文章主体の恋愛アドベンチャーである原作ソフトを、映像主体のアニメーション、それもTVシリーズで表現してみせた。
いや、エンタテインメントとして恐らくは、原作ソフトを凌駕していたものと思います。
多くの場合、同程度の出来映えであれば、原作の方がより評価される傾向にありますから。
さて、自分は原作ソフト未プレイのため、その原作再現度の高さを享受することが出来ません。
ですが皆さんの感想を拝見しますと、未プレイの方はもちろんのこと、プレイ済みの方からも、多くの賞賛の声が上がっています。
奇しくもそれは、劇場版『AIR』(監督:出﨑 統)のそれとは、真逆の様相を呈しています。
プレイ済みの方なら誰しも、『AIR』が映像化されるとこうなるだろうと、勝手な想像をしていたことでしょう。
そしてその想像は各人に最適化され、各人にとってのベストイメージがそれぞれにあります。
この各人が自由に思い描いたそれぞれのイメージを、たった一つの映像作品で満足させていくためには、それこそ各人が思い描いたイメージの十倍…
いや、百倍を超えるエンタテインメントをぶつけていかないと、それは叶わぬことでしょう。
何しろ、人の想像力は無限大ですから…
ですがこの『AIR』の最終話は、多くの人から、賞賛の拍手をもって迎えられました。
それも、何かが突出しての賞賛ではなく、全体としての賞賛です。
総合芸術である映像作品が、その総合力をもって評価されているのです。
そのことをこうして伝えることは、自分にもできるぐらい簡単なことです。
ですが『AIR』はそれを映像作品で、それも斜陽産業といわれて久しいアニメーション業界内のビジネススキームで、実現してみせました。
これはもう、"伝説"と呼んでもいいと思います。
さて、原作ソフト、TVシリーズを問わず、ゴールシーンからラストまでのくだりについては、様々な解釈があるようですね。
ということで、自分なりの解釈というと大袈裟ですが、TVシリーズを通して自分が感じたことを、ここに認めようと思います。
自分が思う『AIR』のメインストーリーは、観鈴(CV:川上 とも子)が往人(CV:小野 大輔)と友達になろうとしたことを起点とし、晴子(CV:久川 綾)と本当の母子になったことを終点としています。
つまり、友達がスタート、親子愛がゴールという解釈です。
1000年前云々は大きな土台であり、決してメインストーリーではないと捉えています。
その上でゴールシーンの後、晴子の回想シーンが明けると、カメラは枯れた向日葵と鰯雲(巻積雲)を捉えていました。
向日葵が夏の季語、鰯雲が秋の季語なのからも判るように、これは夏が終わりを告げたということですね。
つまりはこれは、一夏を駆け抜けた『AIR』というストーリーが終わりを告げたということになります。
またこの鰯雲、自分の眼にはスチール写真に見えます。
他にも敬介(CV:津田 健次郎)が仰ぎ見るもつれ雲(巻雲)も、スチール写真ではないのでしょうか?
そのあと晴子がそら(CV:小野 大輔)に、「あんたは飛ぶんや!翼のないうちらの代わりに」というのは、視聴者に向けての「飛ぶんや!」ではないのでしょうか?
晴子たち翼を持たない『AIR』の住人に、『AIR』という箱庭世界から飛び出すことは叶いません。
ですが翼を持つ視聴者の我々には、『AIR』という箱庭世界から飛び出すことが出来る。
そしてそらという男性視点は、大空に向かって飛び出し、スチール写真の向こうにあるであろう、現実世界へと帰っていった。
新しい始まりを迎えるために。
我が子よ、よくお聴きなさい。
これからあなたに話すことは、とても大切なこと。
私達がここから始める、親から子へと、絶え間なく伝えていく、長い長い、旅のお話なのですよ…
私達は星の記憶を継いでいく。
この星で起こる総ての事象を見聞き、母から子へと受け渡していく。
星の記憶は、永遠に幸せでなければなりません。
憎しみや争いで空が覆い尽くされた時、この星は嘆き悲しみ、総ては、無に帰すでしょう。
いつの日か、滅びの時を迎えること。
それも避けようのない結末。
けれど最後は、星の記憶を担う最後の子には、どうか幸せな記憶を…
この第一話の冒頭にもあったメッセージ。
読み聞かせているのは、観鈴役の川上とも子さんですね。
正直にいいますと、あの映像とも相俟って、リテラシの低い自分は、このメッセージを理解し切れていません。
これは他の方の感想を拝見しながら、ゆっくりと咀嚼していこうと思います。
そしてオーラス。
「この海岸線の抜こうに何があるのか?」
「彼等には過酷な日々を… そして僕等には、始まりを… さようなら…」
これは少年(CV:矢島 晶子)が作り手の代表、少女(CV:野中 藍)が女性視点なのかな?と思いました。
海岸線の向こうには現実世界があり、そこへ確かめに行こうと。
彼等、つまり『AIR』の住人には、これから過酷な日々が与えられます。
そして僕等、つまり現実世界の住人には、『AIR』を観終えた直後から、現実という時間が始まります。
さようならをした作り手の少年は、女性視点である少女と手を繋いで、海岸線の向こうへと歩いていきます。
そしてその少女は、『AIR』のタイトルロゴに重なる。
タイトルロゴといえば、視聴者が作品と向き合ったとき、一番最初に眼に飛び込んでくる玄関のようなもの。
その玄関にまで、女性視点を送り届けた作り手。
『AIR』に限らずフィクションの創造主は、少しでも居心地の良い箱庭世界を作り出し、それを受け手に提供しようとします。
だけどそれは、そのフィクションに永住して欲しいのではありません。
受け手には、一時のエンタテインメントを、享受して欲しいのです。
愉しみ終えた後は後腐れなく、リアルワールドへ戻って欲しいのだと思います。
何故なら人は、逆立ちをしても絶対に、リアルワールドなしでは生きられないのですから。
『AIR』の最終話は、居心地の良いフィクションから、明確にリアルワールドへ戻ることを表現しているように感じました。
そのためのスチール写真であり、そのためのリアルな海岸線表現であると感じました。
そう考えると、過剰とも思える晴子の「飛ぶんや!」演出だって、晴子が明確にフィクションの住人であることを、表現していたのではないのでしょうか?
ここまでタイプしていて思ったのですが、もしかするとTVシリーズ『AIR』は、伝説でもまだまだ、役不足かも知れません。
「伝説から神話へ」
これはいわずと知れた、『グラディウスIII』(1989 KONAMI)のサブタイトルです。
神懸かりしTVシリーズ『AIR』は今、"神話"となった・・・
それでは、よしなに。(敬称略)
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