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2005年2月

2005/02/25

【感想】『AIR』第八話「なつ -summer-」

 "コミカル"な作風の京都アニメーション。
 『dancing blade かってに桃天使!』(1998 KONAMI)に代表されるように、映像が持つ楽しさを前面に押し出せるのが京都アニメーションの魅力であると、個人的には思っています。
 この傾向は『犬夜叉』(監督:池田茂(~#44),青木康直(#45~))に於いて、最も良く表れていたと思います。
 自分が観ていて「今回はギャグが冴えているなぁ」と感じた回は大抵、京都アニメーション制作の回でしたから。(ここに『ふもっふ』を挙げられないのは、未見だからです)


 さて今回の第八話は、そんな京都アニメーションの作風が、遺憾なく発揮されていたと思います。
 Aパートに於ける、神奈(CV:西村ちなみ)と柳也(CV:神奈延年)と裏葉(CV:井上喜久子)のやり取りは、キャストの好演も相俟ってコミカル度満点。
 映像にはこれだけのパワーがあることを再認識させてくれる『AIR』は、今回も実に面白かったです。(^^)
 そして、そういったコミカルなシーンがあるからこそ、Bパートの"シリアス"さが活きてくる。
 こういった構成を"オーソドックス"という言葉で言い表すのは簡単なのですが、これだけではまだ、『AIR』の核心を捉え切れてないように感じています。
 といいますのも、原作ソフトプレイ済みの方の感想が、軒並み好評だからです。
 シナリオ展開自体は相当駆け足のようですが、ファンにとって外してはいけないシーンや台詞は、絶対に外さない。
 更に原作ソフトでは、テキストだけで表現されていたシーンを映像で表現しても、それがファンに軒並み好評。
 テキストだけということは、そのシーンはプレイヤが自由に想像していた筈。
 なのにそれを映像化しても好評ということは、プレイヤが想像していた以上の映像が提供されているということになります。
 そしてそれを原作ソフト未プレイの自分が観ても、充分に愉しめる。
 シナリオ展開も別に早いことはなく、むしろテンポが良いぐらい。
 この辺りはシリーズ構成:志茂文彦さんの、原作読解、分解、そして再構成力の賜物でしょう。
 つまりこれを大袈裟にいうと、ファンを納得させつつも、普遍性のある映像が表現されているということになります。
 時折"マニアック"という言葉とともに、ファンに受けるものとファン以外に受けるものを区別する動きがあるのですが、この『AIR』は、それらが技術次第で両立できることを証明している、希有な作品であると思います。

 これまで自分が面白い!と思う作品は往々にして、他の人にはもう一つに映っていました。
 『serial experiments lain』(監督:中村隆太郎)然り、『CASSHERN』(監督:紀里谷和明)然り…
 だけど『AIR』は、自分以外の人からも、多くの賞賛とともに向かい入れられている。
 コミカルとシリアス、オーソドックスとマニアック。
 これらを相殺することなく、シナジー効果として作品全体を高めているからこそ、『AIR』は今なお、光り輝いているのだと思います。


 それでは、よしなに。(敬称略)

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2005/02/18

【感想】『AIR』第七話「ゆめ -dream-」

 「多分、今回は"溜め"の回なんだろうなぁ」というのが、自分のファーストインプレッションでした。
 正直にいうと、これまでで一番、心が揺り動かされませんでした。
 ですがこれは決して、詰まらなかったという意味ではありません。

 サブタイトルにもあるように、「ゆめ -dream-」を見るごとにみるみると衰弱していく観鈴(CV:川上とも子)。
 母から譲り受けた人形に心を込めた後、画面から姿を消した往人(CV:小野大輔)。
 そしてそのことと引き替えに、元気を取り戻した観鈴。
 ここでいきなり舞台は過去へ、正歴五年 A.D.994 へ。
 そしてそこにいたのは、神奈(CV:西村ちなみ)と柳也(CV:神奈延年)。
 第七話では、冒頭から観鈴と往人のやり取りを描き続けておいて、最後の一分でこれを神奈と柳也のやり取りにすり替えて幕を下ろすという、大胆な構成。
 これはもう、第八話以降の展開を、期待せずにはおられません。
 観鈴が繰り返した「日記じゃない」とか、往人の背中の大きな痕は、伏線ですよね?

 それと作画については、魅せ場らしい魅せ場はなかったものの、相変わらずのしっかりとしたレイアウトは、観ていて気持ちがいいです。 
 カメラがどの角度から二人を捉えても、いつでも同じ地に足が付いていると表現すれば良いでしょうか?
 バラバラに描かれているはずのキャラとバックが、いつでもきちんと同じヴァニシングポイントを捉えているのは、高い技術力によって支えられているからだと思います。

 あと、凄いなと思ったのは、観鈴の「ぶぃ!」というギミック。
 これまでにもう何回出てきたのか分かりませんが、ことあるごとに観鈴は「ぶぃ!」といって、Vサインを出してきました。
 そしてそのどれもが、往人によって受け止められていました。
 ところが今回、観鈴がVサインを出そうとしたときにはもう既に、それを受け止める往人は踵を返していた・・・
 ただの癖だと思いきや、それを往人がいなくなる印象付けにもってくる。
 こういったところに、自分なんかはグッ!とくるのですが、皆さんはいかがでしょうか?
 原作ソフトプレイ済みの方にとっては、何を今更なのかな?

 さてこれから、皆さんの感想を読みに行きます。


 それでは、よしなに。(敬称略)

 P.S.今回の『激☆店』はHDだったのですが、あれは今週から?それとももっと前から?…
   elwoodさんによると、今回からだそうです。
   うちの環境では凄く綺麗なので、このままHDで続けて欲しいです。

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2005/02/11

【感想】『AIR』第六話「ほし -star-」

 突然ですが皆さんは、『DESIRE』(1994 C's ware)をご存じでしょうか?
 昨年、(株)インターチャネルよりPS2版が発売されていますので、ご存じの方も多いことでしょう。
 『DESIRE』の登場人物であるティーナとマルチナ・ステラドビッチの関係は、ラストシーンになってようやく明かされます。
 ですが、この『DESIRE』を普通にプレイしていれば、そんなラストシーンを待たずとも、この二人の関係は自ずと見えてきます。
 そんな分かり切った話が愉しいのか?
 そう仰る方もいることでしょう。
 現に自分も、この『DESIRE』をプレイするまでは、そう思っていましたから。
 ですがこの分かり切っているラストシーンが、ストン!と自分の胸に落ちてくる。
 いや、もっと厳密にいうと、この分かり切っていた二人の関係のことを、本人の口から直接聞きたかった。
 ただ、それだけのことです。
 たったそれだけのことなのですが、これがまた胸に来るんです。
 分かり切っていることでも、ストーリーの持って行き方一つで、充分に人を感動させることができる。
 『DESIRE』はそんなことを自分に教えてくれた、最初の作品でした。
 ちなみに、マルチナ・ステラドビッチ役は、かの池田昌子さん。
 そして奇しくもティーナ役は、観鈴役でお馴染みの、とも蔵こと川上とも子さんです。


 さて、翻って今回の『AIR』です。  自分は今回の第六話を観て、この『DESIRE』のラストシーンを思い出しました。  エンドテロップに於いて、みちる(CV:田村ゆかり)だけ名字が記載されていない。  そして美凪(CV:柚木涼香)の亡くなった妹の名前は、みちるという…  これだけでももう充分に、この二つが線で繋がります。  だけど自分はその答えを、直接みちるの口から聞きたかった。  はっきりと、亡くなった妹の生まれかわりであることを、示して欲しかった。  もちろん、そんなにはっきりとした台詞にしなくても、これまでのみちるの一言半句からはもう、その答えが滲み出ています。  だけど、それでも聞きたい衝動に駆られる自分が今、ここにいる。

 どんでん返しで引っ繰り返すことだけが、ストーリーじゃない。
 愚直なまでに真っ直ぐ持って行くことだって、充分にストーリーになる。
 つまりストーリーは、転がし方ではなく、魅せ方なんだということ。
 嗚呼、なんとストーリーテーリングの奥深いことか。
 自分は原作ソフトを未プレイなので、この展開のどこまでがTVシリーズだけのものかを知りません。
 ですがいずれにしてもこの『AIR』が、高い技術力を持って、観る者を取り込もうとしているのがよく伝わってきます。

 また今回は最初、作画が大人しくなった印象を受けました。
 ですがBパートが始まる頃には、これが大きな誤解であることに気が付きました。
 そしてエンドテロップが始まる頃にはもう、今回もハイクォリティであることに満足していました。
 要は今回は、前回の発作シーンのように突出したシーンがないだけであって、決してレヴェルが低いわけではない。
 むしろ今回は、相変わらずの高い技術力を持ってある一定の、それも非常に高いレヴェルで安定していました。
 こんなにも安定しているのは、今自分が観ている中では他に、『MONSTER』(監督:小島正幸)と『舞-HiME』(監督:小原正和)ぐらいでしょうか?


 さてここだけの話、これまで観鈴が見た夢を語るシーンは、正直にいうとよく解らなかったのです。  観鈴が見た夢は何かを示唆しているのだろうけど、それがもう一つイメージできていませんでした。  ですがそれが今回、劇場版を観て、皆さんの感想を読んで、思いっ切りネタバレを受けたことによって、観鈴の夢が何を示唆しているのかを、明確にイメージできるようになりました。  するとどうなったか?  自分は何だか、とっても切ない気分になりました。  観鈴はなんて悲しい夢を見ているのでしょう。  もしかするとこれ、原作ソフトをプレイされていた方は皆、第一話からこんな気分で観鈴の台詞を聞かれていたのでしょうか?

 徐々にですが、自分の中で原作ソフトは、"した方がいい"から"しなければならない"に、シフトしてきています。


 それでは、よしなに。(敬称略)

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2005/02/09

【考察】劇場版『AIR』

 ネット上に散らばる皆さんの感想を拝見しまして、思うことがありました。
 そこで改めて考察という形で、この文章を認めようと思います。


 1970年代、出﨑統さんが、後に出﨑演出と呼ばれる表現方法を確立しました。  それからというもの、この表現方法は研究され続け、他の演出家にも影響を与えるほどの演出になりました。  これはアニメーション業界全体の底上げにも、繋がりました。  ここから生み出された作品は、瞬く間に多くの人々の心を捉えて放しませんでした。

 時は流れて2000年 9月。
 VisualArt's/Key が、『AIR』という恋愛アドベンチャーゲームを生み出しました。
 この『AIR』により VisualArt's/Key は、『Kanon』を嚆矢とする泣きゲーの地位を、不動のものとしました。
 『AIR』は多くのプレイヤに、感動の泪を与えました。

 そして2005年 2月、劇場版『AIR』公開。
 続々とクォリティの高い映画が発表されている昨今、多くのファンは当然、『AIR』の感動を違った形で味わえる、たいへん素晴らしい劇場版が観られるものと期待しました。
 ところが、実際に出来上がった作品は、出﨑演出による『AIR』風味の劇場版でした。
 しかも今の時代、既に出﨑演出は下火となっており、今では珍しいタイプの演出となっていました。
 どの分野でもそうですが、新しい表現方法は日々、多くの人々によって研究されています。

 さてネット上では、劇場版『AIR』を観た人が口々にしていいました。
×「確かに『AIR』には違いないんだけど、期待していた物とは違う」
○「期待していた物とは違うけど、これはこれで面白い」
×「出﨑演出は今の時代には合わない」
○「『AIR』のことは知らないけれど、この劇場版は面白かった」
 etc.

 この件をもっとマクロに、エンタテインメントとして捉えてみるとどうでしょうか。
 例え看板と中身が違っていても、実際に観てみてそれが、予想していたもの以上に面白ければ、それでその人は満足すると思います。
 何しろお金を払って、エンタテインメントを享受しに来ているのですから。
 では、劇場版『AIR』はどうだったのでしょうか?
 皆さんの感想を総合しますと、『AIR』という素材と出﨑演出はまるで、相殺し合っているかのように見受けられました。
 少なくとも、この二つの相乗効果がプラスに作用しているという意見は、見当たりませんでした。
 実際、自分も、この設定は何のためにあるの?と、首を傾げた箇所が幾つもありましたから。
 つまり、出﨑統監督以下制作スタッフ一同は、『AIR』という素材を使いながらも、その作品を劇場版の名に相応しい内容までには、仕上げ切れなかったのです。
 もちろん作品としては、きちんとしたものに仕上がっていますので、それを面白いといわれる方は、たくさんいらっしゃいました。
 ですが看板には、劇場版『AIR』を掲げているのです。
 劇場版という言葉には、"お金の掛かった大作"というコンセンサスがある。
 普通に面白いどころではなく、劇場版の名をほしいままにするだけの面白さが、要求されているのです。
 『AIR』という素材を十二分に活かした感動が、要求されているのです。
 そんな折り、皆さんの感想の中に、こういった意見がありました。

 そもそも尺の関係から、長編シナリオで魅せる恋愛アドベンチャーゲーム『AIR』を、決められた時間内で魅せなければならないアニメーション作品にすること自体に、無理がある。
 あの感動を、他のメディアで味わえるわけがない。
 『AIR』という素材は、じっくりとテキストを読ませる恋愛アドベンチャーゲームをもって、初めて活きてくる。

 ところが・・・劇場版『AIR』の公開に先行すること一ヶ月。
 新進気鋭の石原立也監督以下制作スタッフ一同が既に、TVシリーズ『AIR』に於いて、これを実現しようとしていました。
 その圧倒的な映像をもって、各話二十数分のアニメーション作品が、長編の恋愛アドベンチャーゲームの感動に迫ろうとしていました。
 恋愛アドベンチャーゲーム『AIR』の感動から冷めやらぬ人はもちろんのこと、普段からゲームをプレイしない者でも充分に愉しめる、TVシリーズ『AIR』。

 同じ『AIR』という素材を用いて、同じアニメーションという表現方法で制作されているのにも関わらず、その完成度がまるで違う二つの『AIR』。
 多くの場合、劇場版の方が完成度は高いとされているのですが、この『AIR』に於いては、多くの人から「神懸かり的だ」と称されるほどに、TVシリーズの方が高いです。

 この先行したTVシリーズの高評価も相俟って、相対的に劇場版への評価は芳しくありません。
 こうなってしまった原因は、いったい何なのか?
 シナリオ?絵コンテ?演出?原画?動画?仕上げ?背景?撮影?特効?演技?上映時間?予算?プロデューサ?etc.?…
 この劇場版『AIR』も他の作品と同様、たいへん多くのスタッフが関わっています。
 それぞれのスタッフは、その与えられた範疇に於いて、精一杯の努力をされたものと思います。
 ですがシナリオは、パンフレットに掲載されていた第三稿の方が断然良いと専らの評判ですし、原画は時折、崩れるところが見受けられる。
 また動画の方も、写真を燃やすところなどに不自然なシーンがあり、背景は精彩に欠けるところがあった。
 何よりも全体的に、他の劇場版作品と比べて、お世辞にも潤沢な予算が掛かっているようには見えない…etc.
 各パートの責任は、各パートに携わったスタッフにあると思います。
 ですがこういったとき、映像作品の監督に関わらず、監督を拝命した総ての人は、その事業全体に関わる総ての責任を負うものと考えます。
 つまり、例え個々にそれぞれの責任があろうとも、万が一全体が失敗したときには、それらを引っくるめて総ての責任を取る。
 逆に全体が成功した暁には、総ての賞賛をそれぞれのスタッフの許へ還元する。
 これこそが監督にしか出来ない栄誉ある役目であると、自分は考えます。

 よって、劇場版『AIR』がこうなってしまった原因は、監督:出﨑統その人にあると、自分は考えます。

 劇場版『AIR』は、劇場版としても、『AIR』としても名前負けの作品でした。
 満足に表現されているものは、出﨑統作品としての映像だけでした。
 これらのことから、出﨑統監督は他の能力に長けていたとしても、劇場版『AIR』の名を冠するに相応しい作品を生み出すまでの能力はなかったと、自分は判断しています。
 それだけ原作ソフトの『AIR』が、偉大だったのでしょう。


 それでは、よしなに。(敬称略)

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2005/02/06

【感想】劇場版『AIR』先行鑑賞会

 極一部の方には、たいへんお待たせしました。
 今回は先行鑑賞会のレポートも兼ねていますので、かなりの長文となっています。
 また、当然のことながらネタバレも多分に含みますので、ご注意下さい。


・2005/02/04(Fri) 20:40 心斎橋パラダイススクエア

 まずは、上映開始までのレポートから。
 自分は開場時間丁度に現地入りしたのですが、既に入場が開始されていました。
 入り口で当選葉書と引き替えに、劇場版『AIR』の資料とポスターを受け取ってから、一路劇場へ。
 席に着いて少しすると入り口の方で、パンフレットの販売が始まりました。
 するとすぐさま、劇場の後ろには長蛇の列が出来ました。
 まぁ自分はネタバレを避けるため、本編を観終わらないうちは絶対に読まないですし、どうせ帰りしなにも購入できるのだからと、タカを括っていました。
 劇場版『AIR』を観て、面白かったら購入しようと。
 ところが自分の隣の席の人がですね、その大きなパンフレットを広げて、読み始めたんです・・・
 もーっ、隣のパンフレットが、気になって気になって仕方がない!(笑)

 そんなこんなの我慢の15分も何とか乗り切り、ようやく先行鑑賞会開始。
 司会はフロンティアワークスの…ごめんなさい、お名前を忘れてしまいました。
 今回は鑑賞会だけかと思っていたのですが、なんと特別ゲストの方がいらっしゃいました。
 特別ゲストは、東映アニメーションの東伊里弥プロデューサと、ビジュアルアーツの樋上いたるさんと折戸伸治さんのお三方。
 ステージ上に向かって左から、男性、女性、男性と並ばれたお三方。
 えーっと、樋上いたるさんって女性の方だったんですか・・・存じませんでした。
 いたるというお名前から、自分はてっきり男性の方かと思っていました。
 それで三人を代表して東プロデューサから、「製作開始から三度目の夏が過ぎました」や「約91分になりました」などの、苦労話がありました。
 最初、司会の方の「三人を代表して」という言葉は、自分の聞き間違いかと思っていたのですが、ビジュアルアーツのお二人のお声は、最後まで聞くことが出来ませんでした。
 ・・・結局あのお二人は、何をしに来られたのでしょうか?
 東天満からの帰りに、ちょっとだけ心斎橋に寄られただけなのでしょうか?

 さて、ゲストの方が退場されてから、照明が暗くなり、いよいよ劇場版『AIR』の上映開始。
 冒頭のトレーラはなんと、劇場版『機動戦士 Ζガンダム A New Translation 星を継ぐ者』。
 どうして東映配給の映画に松竹配給の映画?と、そのときは思ったのですが、後から調べてみると、この会場となった心斎橋パラダイススクエアは、松竹系の映画館だったんですね。
 これも知りませんでした。


 さて本当にいよいよ、劇場版『AIR』の開始です。
 まず最初に、自分に対して出﨑統さんというネームヴァリューは、意味をなしません。
 これは中村誠さん、小林明美さん、周防義和さん等も同様です。
 また、原作ソフトは未プレイでして、唯一の『AIR』体験は、TVシリーズのみとなっています。

 そんな自分のファーストインプレッションは、「古臭い作品だなぁ」です。

 自分が普段から観慣れているトゥルーハイビジョン放送と比較すると、鮮鋭感の劣る35mmフィルムが上映媒体ということもあって、非常に古めかしい印象を受けました。
 また音響の方も、台詞がセンターに定位されていて、それ以外がサラウンドに回されるという、いかにもなサウンドデザイン。
 エンドテロップには「DTS STEREO」だけがクレジットされていましたが、この作品は本当に2005年 2月公開の映画なのでしょうか?
 サウンドデザインに関してハッ!とするようなシーンは、皆無でした。
 また映像の方も、あれを出﨑演出の応酬というのでしょうか?
 まるで四半世紀前の作品のような、入射光、3回パン、ハーモニー処理、画面分割、光る吐瀉物、光る鮮血、etc.…
 海や旗等はCGIで表現されていましたが、電車やバス等は手描きでした。
 どうも3DCGIは、導入されていないようです。
 エンドテロップで、絵コンテのクレジットを見逃しているのですが、あれは出﨑さんのものなのでしょうか?
 歯に衣着せぬ物言いをしますと、三次元空間把握力に乏しい絵コンテや演出でした。
 撮影台に背景画を置いて、その上にセル画を重ねて'撮影'をしていた当時は、基本的にオブジェクトは二次元移動だったので、カメラワークの自由度は芳しくありませんでした。
 そのためこういった絵コンテや演出は、効果的だったのだと思います。
 ところが今は、総ての素材をコンピュータ上に取り込んでから、'コンポジット'する時代です。
 当時と比べてやりやすくなったということはないでしょうが、オブジェクトを三次元的に動かしやすくなった分、カメラワークの自由度は飛躍的に上がり、当時では成し得なかったような映像表現が、次々と可能になりました。
 その結果、今はそれらを活かす力、つまりは、三次元空間把握力に富んだ絵コンテや演出が、求められるようになりました。
 ところが今回の劇場版『AIR』では、時代錯誤とまではいいませんが、たいへん失礼ながら、旧態依然とした絵コンテが切られていまして、しかもそれをもって演出されていました。
 これらを懐かしいと肯定的に捉えるか、古臭いと否定的に捉えるかは、観る人次第だと思うのですが、昔ながらの絵コンテや演出であることに、間違いはないと思います。

 次にストーリーテーリングについてですが、過去の文献を調査しながら、それと今の自分がおかれた状況を重ね合わせるという、オーソドックスな構成。
 過去にあった翼人伝承宜しく、他人を想うに連れて衰弱していく神尾観鈴(CV:川上とも子)。
 だからこそこれまで観鈴は、自分の感情を押し殺して、出来るだけ他人を想わないようにしていた。
 だけど国崎往人(CV:緑川光)と出逢って、自分の身体のことよりも自分の気持ちを、往人を想う気持ちの方を優先しようと決めた。と、ここまでは理解できました。
 これは凄くいい話だと思います。
 ですが最終的に、観鈴の生死はよく判らなかったし、往人は翼人伝承宜しく事切れてはいないし、何より観鈴達は何故、翼人伝承に準える運命を辿るようになったのかが、まるで伝わってきませんでした。
 また、これらをもって劇場版『AIR』は観る者に対して、いったい何を訴え掛けたかったのでしょうか?
 劇場版『AIR』は観る者の心に、いったいどんな楔を打ち込もうとしていたのでしょうか?
 自分はこれこそが作品の肝だと思うのですが、残念ながら劇場版『AIR』は、自分の心には何も残してはいきませんでした。
 その結果、タイトルである『AIR』とは、いったい何を示唆しているのかも、自分には全く伝わってきませんでした。

 それとこれは原作を意識してのことだと思うのですが、劇場版『AIR』に於いて、観鈴の変わった口癖を持つという設定に、何かしらの必要性はあったのでしょうか?
 往人が法術を使えるという設定に、何かしらの必要性があったのでしょうか?
 少なくとも現在放送されているTVシリーズ『AIR』(監督:石原立也)には、その必要性を感じています。
 ですがこの劇場版『AIR』には、それらを感じられないのです。
 翼人伝承を下敷きにして、観鈴や往人を描くのに、これらの設定は本当に必要だったのでしょうか?
 自分の眼には、観鈴が終始標準語を話していても、往人が法術を使えなくても、劇場版『AIR』は成立できたように見受けられました。
 この辺りに『AIR』を劇場版へ仕上げることと、作り手側がやりたかったことや訴えたかったこととの齟齬を、感じています。
 ましてや今回の劇場版『AIR』の上映時間は、約91分。
 『AIR』たらしめるためだけの設定を放り込むのではなく、劇場版『AIR』として必要な設定だけを、充分に絞り込む必要があったのではないでしょうか?
 いや、作品が『AIR』を名乗る以上は、上映時間等の外的要因のいかんに関わらず、これらの設定をきちんと汲み取ってなお、ストーリーとして昇華させる必要があったと思います。
 これが出来ていない、もしくは、敢えてそれを避けたということはつまり、作り手側にそこまでの力量がなかったことを意味します。

 ということで最後はこの感想の纏めとして、かなりの勇気と、劇場版『AIR』に関わった総ての人へ大きな期待を込めて、この言葉で締め括りたいと思います。

「アニメーション界の重鎮の作品は、この程度で終わりとなってしまうのか!?」


 それでは、よしなに。(敬称略)

 P.S. そんなこんなで、結局パンフレットは購入せずに帰宅しました。

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2005/02/05

【ファーストインプレッション】劇場版『AIR』

 こんばんは、先程、先行鑑賞会から帰宅しました。

 ファーストインプレッションは、

「古臭い作品だなぁ」です。

 誤解を恐れずに勇気をもってタイプしますが、御大の洗礼を受けていない自分からすると、あの作風は過去のものであり、そこからエンタテインメントを感じることは出来ませんでした。
 ということで、きちんとした感想はまた後日。
 それと是非とも、御大の洗礼を受けている方の感想を拝見したいです。
 自らの審美眼を鍛えるために。


 それでは、よしなに。

 P.S.流浪人さん、急かさないで下さい。(^^)

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2005/02/04

【感想】『AIR』第五話「つばさ -wing-」

 役者による声だけの演技と、アニメータによる絵だけの演技。
 この二つがぶつかり合う先にあるのものとは?・・・

 そんな言葉がふと、脳裏を過ぎるこの作品は、グサグサと自分の心に楔を打ち付けてきます。

 ぷろだくしょんバオバブ所属の、とも蔵こと川上とも子さん。
 とも蔵さんが演じる観鈴が、夕べ見た夢を語るシーン。
 このときカメラは、ただただ真夏の青空いっぱいに広がる、白い雲を捉えているだけでした。
 あの観鈴の長台詞を、本当にただこれだけで魅せてくる。
 背景美術の技量をストレートに問うこの絵コンテには、挑戦的という形容詞が相応しいはずなのですが、そんなことは微塵も感じさせないぐらい、何気ないシーンに仕上がっています。
 ただ観鈴が往人(CV:小野大輔)に滔々と、夕べ見た夢の話をしているだけ。
 たったそれだけのシーンなのに、いつの間にか作品世界に引き込まれている自分がここにいる。
 とも蔵さんの演技を意識しているはずが、いつの間にか観鈴の話に耳を傾けている。

 これは観鈴が神経衰弱をしようとして、発作で泣き崩れるシーンもそうでした。
 「 … だ い じ ょ う ぶ … だ い じ ょ う ぶ 」
 観鈴をカメラの正面に捉え、身体を大きく仰け反らせてから、俯せになって畳の上に泣き崩れる。
 燎原の火がごとく、感情を剥き出しにして泣き出す観鈴。
 アニメータの技量をストレートに要求しているはずの絵コンテですが、それをいとも容易く描き切り、その上でキャラクタに迫真の演技を付けている。
 とも蔵さんの泣きの演技にも負けない・・・いや、それをも凌駕せんとするキャラクタの演技はまさに、アニメーションの真骨頂。
 役者による声だけの演技と、アニメータによる絵だけの演技がぶつかり合った結果、そこには紛れもなく、神尾観鈴という'少女'が泣いていました…

 ここでもう一人、81プロデュース所属の柚木涼香さん。
 柚木さんが演じる美凪は、たいへん抑揚が抑えられています。
 同じく柚木さんが演じる、『舞-HiME』(監督:小原正和)の珠洲城遥と比較すると、その差は歴然です。
 ですが、そんな抑え込んだ抑揚の中で光る、柚木さんの泣きの演技。
 「 飛 べ な い つ ば さ に 、 意 味 は あ る ん で し ょ う か ? … 」
 先程の観鈴のそれとは対照的に、包み隠し、抑えることによる感情表現。
 しかもこのとき辺りは、夕暮れ時の高校の屋上。
 夕暮れ時といっても、まだ水平線の向こうで、太陽が沈み切ってしまおうかと迷っているような、そんな夕焼け雲も星空もある夕暮れ。
 コントラストが抑えられた映像の中で、観る者の感情に躙り寄るような演技を付けるアニメータ。
 映像が音声を、音声が映像を呑み込まんとする、演技の応酬。
 役者による声だけの演技と、アニメータによる絵だけの演技がぶつかり合った結果、そこには紛れもなく、遠野美凪という'少女'が泣いていました…

 これまでのハイクォリティな映像作品といえば、どちらかというと、その技術そのものを「凄いなぁ」といっていました。
 ところがこの『AIR』は、その技術がきちんと作品の中身に向けられていて、「凄いなぁ」という言葉はそのまま、『AIR』という作品自体を指しています。
 『AIR』は何と、骨太な作品だろうか。
 確かな技術によって裏打ちされ、観た者の心に楔を打ち込む作品は、まさにエンタテインメントの極み!
 しかも『AIR』はそれを、TVシリーズのアニメーションでやり遂げようとしている。

 歴史に残る作品が今、生まれようとしている…


 それでは、よしなに。(敬称略)

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